野心

純文学を書く上でいちばん必要とされるのは、文章力でも、実体験でも、読書量でもない。
野心だと思う。


野心があればこそ、いままでにないものが書ける。
野心があればこそ、時代性を捉えたものが書ける。
野心があればこそ、歴史に残りゆくものが書ける。


ぼくには、野心がない。
今回の作品には、ない。
書けるものを、己自身から搾り出すようにして、書いただけだ。


それでは駄目だ。
それでは駄目なのだ。


そういうことを学べただけでも、進歩と捉えよう。

眠ることが好きだ。
毛布に包まって夜中をやり過ごすのも、電車内でするうたた寝も、勉強の合間に突っ伏すのも、例外なく気持ちいい。
たぶん、必要以上にぼくは眠っている。
暴食、という言葉はあるのに、暴眠、とは言わないのがふしぎでならない。

最近は、五欲を満たすために生きているような気がする。
それが幸せなことなのか、不幸なことなのか、わからない。

手を差し伸べる

たとえば。
切ったばかりの髪に気がついてほしければ、「髪型、どう?」と聞いてみればいい。
手を繋ぎたいのなら、「はい」と空っぽの手を見せてやればいい。
そういうちいさな努力もせずに、「ぜんぜんわたしのこと見てない」と怒る女の子が苦手だ。

お互いに手を差し伸べるから、手を取ることができる。
どちらが先に出したか、なんて些細なことは、気にしなければいいだけの話だ。

いまの彼女は、それができるひとだ。
すこしの無理もせずに付き合えているのは、そのおかげだと思う。

人間観察

電車内で本を読んでいると、ときどき向かいのひとが自分を見ていることに気がつく。目が合うと逸らす。
人間観察、だろう。
趣味は人間観察、と恥ずかしげもなく言い張れるひとが、ぼくは苦手だ。見ること、見る側にいることの残酷さを自覚しないでいるのは、犯罪じみている、と思う。

ときどきぼくも、気づかれないように「人間観察」をする。後ろめたくて、気持ちいい。

読書ってのは、

もっと自分本位でいいと思う。
主題を正しく読み解けなくたって、誰に迷惑を掛けるわけじゃない。
ネット上にレビューや評論が踊り、「正しく、深く読み解くこと」ばかりを追い求める今だからこそ、むしろ個人的に読んでいくべきなんじゃないか。
大事なのは、「それがどういう本か」ではなくて、「その本を読んで何を考えたか」であるように思う。