野心
純文学を書く上でいちばん必要とされるのは、文章力でも、実体験でも、読書量でもない。
野心だと思う。
野心があればこそ、いままでにないものが書ける。
野心があればこそ、時代性を捉えたものが書ける。
野心があればこそ、歴史に残りゆくものが書ける。
ぼくには、野心がない。
今回の作品には、ない。
書けるものを、己自身から搾り出すようにして、書いただけだ。
それでは駄目だ。
それでは駄目なのだ。
そういうことを学べただけでも、進歩と捉えよう。
手を差し伸べる
たとえば。
切ったばかりの髪に気がついてほしければ、「髪型、どう?」と聞いてみればいい。
手を繋ぎたいのなら、「はい」と空っぽの手を見せてやればいい。
そういうちいさな努力もせずに、「ぜんぜんわたしのこと見てない」と怒る女の子が苦手だ。
お互いに手を差し伸べるから、手を取ることができる。
どちらが先に出したか、なんて些細なことは、気にしなければいいだけの話だ。
いまの彼女は、それができるひとだ。
すこしの無理もせずに付き合えているのは、そのおかげだと思う。
ひとを見るから
ひとを見るから、ひとみ、と呼ぶのだろうか。
彼女の瞳に映る自分を見ながら、そんなことを考えた。
I love her.
「ぼくはきみが好きだ」
だけでなく、
「ぼくは彼女が好きだ」
と言えるのが、とてもうれしい。
人間観察
電車内で本を読んでいると、ときどき向かいのひとが自分を見ていることに気がつく。目が合うと逸らす。
人間観察、だろう。
趣味は人間観察、と恥ずかしげもなく言い張れるひとが、ぼくは苦手だ。見ること、見る側にいることの残酷さを自覚しないでいるのは、犯罪じみている、と思う。
ときどきぼくも、気づかれないように「人間観察」をする。後ろめたくて、気持ちいい。
読書ってのは、
もっと自分本位でいいと思う。
主題を正しく読み解けなくたって、誰に迷惑を掛けるわけじゃない。
ネット上にレビューや評論が踊り、「正しく、深く読み解くこと」ばかりを追い求める今だからこそ、むしろ個人的に読んでいくべきなんじゃないか。
大事なのは、「それがどういう本か」ではなくて、「その本を読んで何を考えたか」であるように思う。