やる気

なんにもやる気が起きなくなることがある。
ものを書く気にもなれない。読む気にもなれない。部屋を掃除する気にも、溜りに溜まったタスクを消化する気にもなれない。
そんな自分を、励まして立ち上がらせる気にもなれない。


そういうときに、彼女からの電話を待ちわびている自分に気がつく。
言い訳みたいに。

文章

彼女よりも、ぼくのほうが文章はうまい。
日本語は整っているし、語彙力だってそこそこある。論理的な展開も、そうそう突っ込まれるほど隙だらけではない。
彼女よりも、ぼくのほうが文章はうまいはずなのだ。


けれども、彼女の文章は、読んでいるうちに消失するのだ。
かわりに風景が立ち上がる。そこに人が息づく。


ぼくの文章は、消えない。
ページの上に留まったまま、沈黙している。

読書に耽る

最近は、書くよりも読んでばかりいる。
読書がこれほど新鮮に、単純に、楽しいと思えるのは初めてかもしれない。
いそいそと買い込んできた本を、はじめて心穏やかに読めている。


ぼくは生み出さなくてもいい。
ぼくが生み出さなくてもいい。


以前は焦燥とともに語られたこの言葉が、いまはぼくを落ち着かせてくれる。


そう、ぼくは生み出さなくてもいい。
ぼくが生み出さなくてもいいんだ。


たくさんの本たちが、ぼくを待ち受けている。
たくさんの人生経験が、ぼくを待ち受けている。
焦るな。
ゆっくりと、一歩一歩、進め。
その足跡が、やがて自然と本になるだろう。

なんてことない日常

純文学で「なんてことない日常」を描く場合、その姿勢はネガティブだ。
「生きづらさ」を感じるひとびとが描かれる。
読者は作品中の「現実」を通して、もう一度、この問題についてじぶんなりの考えを巡らせる。
それが純文学のひとつの効能だ。


エンタメで「なんてことない日常」を描く場合、その姿勢はポジティブだ。
「ふつうに生活することのすばらしさ」が描かれる。
読者は作品中に提示された「理想」を通して、じぶんの生きるべきロールモデルを発見する。
それがエンタメのひとつの効能だ。


どちらを書かされるか、といえば、前者だ。
衝動によって筆は走る。


どちらを書きたいのか、といえば、後者だ。
情熱によって筆は走る。

彼女が書くように

なぜ、僕は彼女が書くように書けないのだろう。
人間を文章のなかに閉じ込めて、かつ活き活きと息づかせるように。


彼女に野心はないかも知れない。
けれど、少なくとも、彼女は人間を知っている。
僕とは違って。


嫉妬はなくても、焦燥はある。

小説を書く

すべての人が小説を書くようになれば、世界はすこしだけ平和になると思う。


自己実現の術を持たないがために、人は、人に依存したり、人を出し抜いたり、人を殺したりする。
小説を書く、というのは、自己実現のひとつの術だ。
じっさいに書かなくたっていい。
俺は小説を書くのだ、書いてみせるのだ、という意識のもとに生きればいい。
そうすれば、それが自信となる。
どんなちっぽけで駄目な自分を突きつけられても、まあ、俺には小説があるからな、と思うことができる。


でも、ほんとうに書く気なら。
その野心は、必ず翻って自分自身を傷つけるだろう。