「ロックンロールは鳴り止まないっ」のどこが衝撃的だったのか?

神聖かまってちゃん、というバンドがある。
最近出てきたパンクバンドだ。ネットの動画サイトでPVやライブ映像を公開していたところ、メジャーデビューにこぎつけたという経歴の持ち主だ。


はじめて彼らの曲を聴いたのは、去年の秋頃だった。
ネットで「神聖かまってちゃんがスゴイ」と褒め称える記事を読み、ほんまかいなと思ってYouTubeを覗いてみたのがきっかけだった。


曲名は、「ロックンロールは鳴り止まないっ」。


正直に言う。
打ちのめされた。


一回目は呆然と聴いた。
二回目はボロボロ泣きながら聴いた。
三回目は一緒に歌詞を絶叫しつつ聴いた。
まあ、要するに、「すごかった」のだ。


なんて言うべきかな。
「やられちまった」というか。
「ああ、叫ばれてるよ」というか。
「おお、ここに同志がいるぜ」というか。
少なくとも、僕と同じ時代で、同じように苦しみながらモノを生み出そうとしている奴らがいる——ということだけは、分かった。


間違いない。
これは、僕たちの世代の音楽だ。
ようやく、僕らの手元にやってきた。
そう感じた。


なにがそんなに衝撃的だったのか。
歌詞の一文一文を追いながら、じっくりと見ていきたいと思う。
できれば、実際に曲を聴きながら——歌詞を見ながら、この先を読み進めてもらいたい。

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インディ・ジョーンズの手帳

インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」がテレビで放映していた。
ESを仕上げなくてはならないのに、ついつい見入ってしまった。
つくづく名作だ。


劇中に、インディの父・ヘンリーが残した手帳が出てくる。
掌に収まるほどの、茶色い革表紙の手帳だ。
長年使い込まれているせいで、ページは焼け、表紙は色褪せている。


そして、中には必要なことすべてが書き込まれている。


困ったときにはこの手帳を開けばいい。
謎の手がかりは、ここに載っている。


さいころ欲しくてたまらなかったこの手帳。
「困ったときにこれを開けばいい」というのが素晴らしい。
いわば、攻略本なのだ。


で、ふと思った。
創作における攻略本をつくろう、と。
自分が気付いたノウハウ・創作法・やる気の出し方etc.
ものをつくる上で必要なことすべてを書き込んでいく。
もしスランプに陥って、頭をかかえるしかなくなったら、これを見れば事足りる。
そういうノートをつくるのだ。

やりたいことが、

複数あるとき、どれからやっていいか迷う。
Aに手を出してみて、すぐさまBに目移りし、気付けばCをやっている。
読みたい本が複数あるときなんてひどいものだ。
数ページずつつまみ食いするように読んでいったすえ、すべてが面倒になってネットへと逃げる。
いちばん無駄な時間に走る。
そんなことがざらにある。


やるべきこととやりたいことが重ならない。
そういうこともある。
テスト前にむしょうに部屋の掃除がしたくなる、なんていうのは典型的な例だ。
そうした場合、ダメ人間であるぼくは、やるべきことよりもやりたいことを優先する。
しかし、そうしながらもやるべきことが頭に引っかかっているせいで、やりたいことに集中することもできない。


大事なのは割り切ることなのだろう。
これ、と決めたらその日はそれをやる。
それだけをやる。
ほかのことは忘れる。
少なくとも、その日に限っては。


よし。
エントリーシート書くか。

ブログ開設しました。あと純文学について。

何度めのブログ開設だろうか。
今度は続ける。
あれだ、あんまりキッチリ書こうとか思わずに、思ったことをだらりと吐き出していけば、きっと続く。


純文学を書け、と彼女に言われている。
エンタメ畑でずっと書いてきて、自分には純文なんてできるわきゃーないと思い続けてきた。
諦めてきた。
あれは、なにか「書くべきもの」を持っている人だけに許された芸術なのだと。
自分は芸術家ではないのだと。
だから割り切って、せめて他人に面白がってもらおうと、エンタメを書き始めた。
人物なんてペラッペラで構わない。
ただ、ハリウッドみたいにむやみに面白がれればそれでいい。
そう考えて。


だけどね、どうもそうじゃないらしい。
僕の作品には魂が込もってないのだと言われる。
人がきちんと立体として描けてないのだと。
それでいいんだよエンタメなんだから、と思っていたんだが、読者としてはそうもいかないらしい。


知ってるかい。
人って、その中に生きる人間を見るために小説を読むらしいぜ。
トリックだのギミックだのガジェットだの世界観だの設定だのは二の次で、とにかく人間が見たいのだと。
僕は知らなかった。
そういう風に読んだことさえあんまりなかった。
トリックだのギミックだのガジェットだの世界観だの設定だのを楽しんで、これはいい、とか、これは微妙、なんて判定をくだしながら読んできた。
けど、それはいかんのだと。


純文学とは、リアルな人間を写し取るものだ。
だから、僕は純文学を書くことで、バランスをとることができるかもしれない。
いままで僕が書くものに、人間が全く欠いていたとするなら、今度は徹底的に人間を描く練習をすれば、ちょうどいいのかもしれない。
彼女はそういう風に言った。
それから、僕という人間はなかなか面白いから、その視点から書かれた人間像を見てみたいのだと。


僕という人間が面白い。
その言葉がいちばんびっくりだった。
同時に、おまえ贔屓目で見てんじゃねえのかい、とも思ったが、それこそ卑屈になり過ぎなのかもしれない。
まだ、分からない。


分からないなら、書いてみればいい。
試しに。
そう、ものの試しに。
どうせ減るもんじゃない。
減るとしたら時間だけだ。
そして幸い、時間だけならアホみたいにたっぷり持ち合わせているのだ。


もしかしたら。
面白くない人間でも、純文学は許容してくれるかもしれない。
試してみよう、試しに。