「純文学ってなんなのよ?」と、

ふだん小説を読まない人に問われることが、最近あった。二度。
せっかくの機会なので、「純文学」の定義について考えてみたいと思う。


さて。
僕がその時、彼ら二人に説明したのは、以下の三点だ。

1、純文学とは、現実を写しとるものである
2、純文学とは、新しい表現を追求するものである
3、純文学とは、文字による芸術である

一つひとつを取り上げて考えてみたい。

1、純文学とは、現実を写しとるものである

これは、だいたいの純文学作品に当てはまると言える。
純文学を書く上での要件とは、「正確に書くこと」だと、中条省平氏の本に書かれている。*1
作者が自信を持てず、あやふやなイメージのままに書かれた小説は、決して「リアル」に感じられない。書き割りの背景のように、嘘くささが鼻についてしまう。「作り物ね」と思いながら読むから、読者が感動することもない。
正確に書く、とは、確信を持って書くことだ。
そのためには、よくよく出来事を観察することが必要だ。対象物を観察せずに、デッサンをしようとしても無駄な話だ。書き手は日常生活をきちんと生きて、作品の素材としなくてはいけない。
純文学に私小説が多いのも、これが理由だ。
正確に書くために一番てっとり早いのは、自分の身の回りのことを書くことだからだ。
作家の真摯さゆえに、純文学作品は多かれ少なかれ私小説的な色彩を帯びる。
1の条件は、おおむね間違ってはいない。


しかし、一つ言い漏らしがあるとしたら、「現実を写し取らない純文学作品も存在する」ということだ。
現実を戯画化し、極端に誇張して描くのも、純文学の世界ではごく当たり前の手法である。
代表的な例に、『クチュクチュバーン』(吉村萬壱)や『砂の女』(安部公房)などが挙げられる。
あの辺りの作品を「現実に起こったことだ」と誤読するのは、相当頭がキてしまっている人だけだろう。
これらの作品群が心がけているのは、「非現実を舞台としながらも、そこで描かれる人間性に関しては嘘を吐かない」という点であろう。
ガリバー旅行記』を思い出して貰えると分かりやすい。アレに出てくる小人や巨人らは、人間の滑稽な愚かしさを浮き彫りにしている。つまり、小人や巨人といったファンタジックな登場人物たちも、突き詰めればすべてデフォルメされた人間なのだ。

2、純文学とは、新しい表現を追求するものである

これもだいたいにおいて間違ってはいない。
「純文学とは文体だ」という慣用句に代表されるように、純文学でもっとも重要とされるのはその文章表現である。大事なのは、「なにを書くか」ではなく、「いかに書くか」なのだ。
今までになかった表現を試み、それが成功しているなら、多少テーマや題材・筋立てが陳腐であろうと許容される。
これを逆手にとって、テーマ・題材・筋立てにエンターテインメント的な要素を持ち込み、大衆受けを両立させたのが村上春樹吉田修一なのだが、その辺に関してはまたいつか違う記事で言及しよう。
とにかく、大切なのは、純文学が新しいものを求め続けるという部分だ。
そのせいで、新しいものを新しいものをと追求を突き進めた結果、読者がよく分からない領域までたどり着いてしまったのが20世紀文学の最大のミスだと言える。
ぶっちゃけた話、プルーストジョイスのせいで、文学は「ワケわからん」度を増していったのだと言い切ってしまっていい。
幸い、21世紀になって以降は、文学に物語性を取り戻そうという動きが盛んになってきているおかげで、純文学作品もいくぶんとっつきやすくなってきている。
とはいえ、まだまだ敷居が高いのは事実である。
「分かんねえ奴は読むな。バカお断り」というのは、今も昔も純文学の標準的態度であり続けている。いわば、高級料亭みたいなものだ。
……うん。結局批判してしまった。しゃーないしゃーない。

3、純文学とは、文字による芸術である

ここで僕が使った「芸術」という言葉には、二つの逆説的な意味合いをふくませている。
ポジティブな意味合いと、ネガティブな意味合い。この二つだ。
ポジティブな意味で言えば、芸術であるから商業性を考えずに素晴らしさを突き詰めていっていいという部分がある。また、誰ともない権威が認めた「高尚な文化」というイメージも伴うだろう。
ネガティブな意味で言えば、芸術とは「ワケわからん」ものであるということ。岡本太郎の造形やピカソの絵を見たときの置いてけぼり感。アレだ。「分かる人だけ分かればいい」という大上段で尊大な姿勢が透けて見える。
どちらも、間違ってはいないと思う。
良くも悪くも、純文学とは芸術なのだ。
だから、教養として読むのも読まないのも構わない。芸術に対してどのような姿勢を取るかは各人の自由である。ただし、娯楽として見たら、決してカンタンに面白がれるものではありませんよ、とそう言いたいわけだ。

まとめ

この3点で純文学のすべてを定義づけられる、というわけではない。残念ながら。
なぜか、と言うと、この3点は純文学のすべての作品に共通する要素を引っ張りだしてきただけであって、その上で何を「主題」として取り扱うかは各々異なっているからだ。
そして、その「主題」こそが純文学の最大の目的だ。
多くの場合、純文学の書き手はたった一つの「命題」を設定し、そこから派生する数々の「主題」を作品群に閉じ込める。
この「命題」は、そうカンタンに答えが出るものではない。死ぬまで答えが出ないまま終わる、というのが普通なのだ。
というより、答えが出せてしまうようなものは「命題」たる資格がない。この「命題」というのは、つまり人間そのものが抱える業・矛盾のごときものだからだ。
人間が人間である限り、一生答えが出せない問題に対して、答えを出そうと躍起になって書き続ける。それが純文学という試みだ。例えるなら、三途の川で石を積み続ける子供たちのようなものだ。
多くの作家が自殺を遂げるのも、頷けるだろう。


純文学とは、キ○○イの所業だ。
そして、キ○○イゆえに、面白いのだ。
たぶん。

*1:中条氏の『小説家になる!』シリーズは、軟派なタイトルに似合わず硬派で的確な文芸指南本なので、一読されることをおすすめしたい